日々の是これ

雑記帳

ひもトレと勁動を観るということ

ひもトレと意拳の間で、面白いニアリーイコールを発見したのでメモ。

過去光岡先生の講座の王郷齋の意拳成立のプロセスについての聴講録として以下の様なことを書いた。(ちょこっと加筆しました)

以下引用
(武術を問わず)型、式の動法(順番/手順)を実行すると、例えば、形意拳の三体式(左劈拳の構え)をすると手順以外を取り分け意識せずとも「勁道」が生じる。

「勁道」とは力の働きの道すじのようなもの。
(中略)
三体式は右ハス構えからの左劈拳(のような構え)の流れしか存在しないが、逆の左ハス構えから式をすると、強い違和感を感じる。

また実際右劈拳の構えのまま前方から強く押されると簡単に崩されてしまう。
今度は通常の三体式からその流れのまま五行拳の劈拳の手順を実施する。

先程の逆三体式とは打って変わり、同じ右劈拳の姿勢であるにもかかわらず強く押されても崩れない。
(中略)
これら勁道の表現は三体式などの式や型の手続きを経ずとも同じ勁道を内観することで同様の状態を現すことは可能である。

(先生がここでデモ、ノーモーションから右劈拳の構えをとるが、押されても崩れない)
型や式にて生じる勁道を観法/注目することで、手順手続きを経ずとも勁道が表現される。この勁動の表現こそが意拳の雛形となっているのではないか?
(以上引用)

動法によって勁動が発現するプロセスを観法するコトで、ある定位での姿勢が強化されるというのは、ひもトレでお腹にヒモを巻いた時のテストでやる「小さく前へならえの姿勢で腕に飛び乗るように体重をかけられても崩れない」というそれとよく似ている。

ひもトレで期せずして何らかの勁動が観法された状態が発現しているかのようにも見える。勁動を観法する行為は今後も注目が必要だと強く感じた。

ひもトレ(ひもエクササイズ)と全身の協調性について

「一挙動に全身が参加してる感じはいかなるものか」を知るツールとしてヒモトレのヒモエクササイズ(輪にしたヒモを手などに引っ掛けるタイプ)は本当にいいガイドとなる。

いつかの韓氏意拳講習会にて「ひとつの動作のクオリティは部分への執着を離れることで高まる(意訳)」と小関先生仰っていた。
「ひとつの動作」と云う「細分化できない目的」を取り扱うには、一動を分解してパーツを組み直すようなアプローチでは目的と動作の間に時差が生じる。多分理知的な理解ではどうしてもパーツでしか躰を観ることが出来ない。結果部分の連動は脚と手との動作に時間差を生じさせ、躰の全体性を損なう。
そこでひもエクササイズを導入すると比較的インスタントに部分即全体の感覚が得られる。動作における濁りや部分への粗大な集中が消えるのだ。
具体例としては手指先の軽さ、足裏の居着かなさと足裏のホバリング的な感覚(たぶんこの感覚は全身が纏まっていることを意味する)など。バランスボードなどの不安定器具に乗った時に得られる脚元を踏ん張れないが故の、動作中の内部感覚における濁りの無さに似る。

腰を軽く落とし手首をひもに預け、軽く張る。

ヒモに手を預ける時の張り具合も、足裏へ感じる重みに大きく影響する。ひもに預け切るではなく、ギリギリ軽く張るか否かくらい。即座に足裏から重みが消える。
重みが消えると云うことは、無自覚に足裏へ偏っていた力感が身体の各部位にバランス良く分散した、と云うことかもしれない。
このように躰の全体の動作をともなう変化や協調性を観るには巻くひもトレよりヒモエクササイズの方が使用前後差を強く感じやすいかもしれない。興味が尽きない。

ただしそこが身体運用における「入口」であることは忘れないでおいた方が良いさそうだ。

プラユキ先生に会いにいった時のこと

とある病気で身体が動いたり動かなかったりするようになったしまったので、会社を休職することと相成った。

動ける日はむちゃくちゃ動けそうな気になるがお医者さんによると「そういう病気です」とのことで、まあそんなこんなで動けそうな日には主治医に叱られない範囲で動くことにした。

これまたそんなこんなで、前から行ってみたかったプラユキ先生*1の個人面談に精神の保養を兼ねお話を伺いに行った。

いちおうザックリ省略すると以下のような対話がなされた。役に立つ方もいるかもしれないのでシェアしてみる(文責は私:いわもと まおです)

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Q1:アクセプタンスと云うコンセプトについて。

仏教やスピリチュアル系によくある、「現状を受け入れる」というコンセプトがあり、実践していたが、コンセプト通りに頑張っているうちに病気になってしまった。

A:仏教に限らずいろんな教えに対するドグマ的な理解は、結果苦しみを増すことになるよ。そもそも「自分自身」への「苦」に無自覚だったのではない?

多分ドグマで自分を律していたが故に苦しみを抑圧もしくは見ないようにしていたのかもしれないね。

まず自分自身の苦を難しく考えずに、ハートで感じてみよう。いったん「頑張りが足りないんじゃないか?」とか「私がおかしいんじゃないか?」とかは脇に退けて。

私)苦しみがあることを肯定できてなかったかも

A:そうそこなんだよ!苦しみを苦しみとリアルに感じ始めて、そこが苦しみを解決する出発点になるのはもう知ってたよね(四聖諦)

 

Q2:我具足について

無我なんだから自分の傾向を知ることなんて無意味と自らの得意不得意を考えず生きてきましたが、我具足というお話を伺いもう少し自分を知ろうと思うようになりました。

A:自分自身をドグマや概念で括らずに、いろんな「ヒト」や「コト」に出会っていくことで、自分自身が見えてくるよ。ちょっと味見をしてまわるくらいの気楽さで。「予想外」に出会いに行こう。予定調和ではないセレンディピティのなかで「好き嫌い得意不得意」が見えてくるものだよ。

(以上)

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対話の中で無理筋でなく、かつ現実的な指針を先生側からではなく、こちら側が気づく形でうながすような他者の主体性を奪わないカウンセリングは圧巻でしたね。指針と癒しを得て帰宅。

*1 タイ上座部仏教の比丘(お坊さん)